失われた魔法、空いた穴、喪失感

 ※ この記事はサークラアドベントカレンダー11日目*1の記事として作成したものですが、テーマである「こじらせ自分語り」とはズレている内容が扱われているかもしれません。

 ※※ あんまり読みやすさを期待しないで下さい。

 ※※※ 記事中に掛かれている内容について。誤字、脱字、事実と異なる記述、誤解を生む表現については、指摘を受け次第修正を図ります。が、筆者が関知していない場所での意見を拾うことはできませんし、たとえ筆者のもとに届いた意見であっても独断で誹謗中傷であると判断した意見については無視します。

 ※※※※ 一応最後の方は希望の兆しが見える締め方で〆ました。が、本文はいかにもうだつの上がらない鬱病男の文章という感じになってしまった。

 

 

 

自己紹介

とま沢です。特に学生でも何でもない者です。サー同歴は6年程度ですが、頻繁に顔を出す方では無く、主体的なコミット度も少なく、興味のある読書会や勉強会が行われているタイミングを狙ってたまに顔を出すくらいの者です*2

今回は、昔手放してしまったものについて連想的に語っていこうと思います。抽象的な話が続く段落、論理のギャップが著しい部分があると思いますが、可能な限り容赦してほしいです。具体的なエピソードベースできっちり考えていた時期は、こういったことを考えるたびにいちいち際限なく凹んでそのたびに周囲と自分に当たってしまっていたので、今は控えめな言葉を使って婉曲的に考えるようにしています。あと、本文は常体で書かれています。

 

 

本文

自分は人のものや「他」性が強く感じられるものを欲しがっていた子供だった。今もそうだと思う。消費社会論や他者の欲望論などに触れるとかなり刺さる。単に人に精神的物質的に依存しがちな面とか、飽きっぽさとか、慢性的な自己肯定感の低さなどが根幹にあるのかもしれないし、それらとは別で「他」「外」を求め続ける強い欲動があるのかもしれない。

 

小3の頃、表面が磨り加工された青いビー玉を持っている同級生がいたが、彼にねだってそれをもらったことがある*3。貰った後は、20歳過ぎた後も大切に持ち歩いていたり、部屋の隅に作った「祭壇」に祀ったりした。昔はそういったビー玉みたいな小物や雑貨をいくつか所有していて、それらをペットボトル飲料か何かのおまけで付いてきた小さくて真っ赤な巾着に入れて大切に持ち歩いていた。もともと*4綺麗な鉱物や変わった形の生き物やフィギュアが好きだったのだが、それがきっかけで生じた癖だったと思う。巾着の仲間たちの中には錆びた大きなワッシャーらしき機械部品があって、これは下校中に道端で拾ったものだったか。指に嵌めたり、小さなビー玉と合わせて土星を作ったりして遊んでいたのを覚えている。自分は空想好きだったのだが、割と田舎の方に住んでいたので、登下校中に暇なときは、適当な枝や草を拾っていじっていたり、劣化して裂けて長いこと補修されていない道路のアスファルトのヒビを見つめたりもしていた。ヒビの中にはきっと自分たちと同じような生活をしている小人たちがいて、小人の世界の道路のアスファルトのヒビの中にも、小人の小人が住んでいるのだろう、などと考えたりもしていた。そういった遊びと地続きなかたちで、巾着やビー玉を常に持ち歩く癖があった気がする。

しかし、いつ頃だったか*5、巾着や空想の意味づけがちょっとだけ変化した。魔法に使う魔石だとか、自分が何かを行為したり実行したりする際の媒介である、など、具体的でファンタジー設定的な色彩をちょっとだけ帯びてきたのだ。ちょっとだけ。自分がそれを持ち歩いている理由も、持ち歩いていて楽しいからではなく、たとえば、テストのときの願掛けとか、学校に行くのがつらい時のお守りとか、そういった考えが確立してきてしまっていた。ある種の依存心が強くなってしまったのかもしれない。もともと学校ではさまざまな不具合や事件の当事者として悪目立ちしていたが、クラス内でのハブられや馴染めなさの度合いをしんどく思うようになってきていた気がする。多分、前述の設定や説明、ひいては常に持ち歩いている巾着やビー玉は、そんな自分を守ってくれるバリアの一つだったのだろう。ただし実はバリアはその一つでは十分ではなく、いくつか設けたうちの一つだった*6

その後も巾着*7は、学校に行くときもどこかに出かけるときも部屋にいるときもだいたい常にポケットに入れて肌身離さず持ち歩いていたのだが、中高大に進学した後も、それをやめることができなかった。

最初の大学を除籍し地元で宅浪していた時期、自分は巾着を持ち歩く癖をある種の物質依存や偶像崇拝と解釈し、そうした試みは「欠落」であるとのだと断じ*8、それをやめて、「完全な大人の男性」*9になることを目指した。他にも、そういった「欠落」を自分はたくさん持っていた。それらは概ね「女子っぽくて乙女な趣味」「理系なのに*10空想主義的で妄想的」「女の腐ったみたいな」奴の特徴であることを自分は「よく理解していた」ため、「甘え」を捨ててそれらを必要としない生き方にレールチェンジするために奔走した。その際にハガレン*11エルリック兄弟などを見習い、再受験した大学に受かって京都に引っ越すことを期に、それら「余分なもの」を徐々に捨てることを決心した。そして、色々あってそれらの多くを捨てることに成功してしまった。ビー玉や巾着の行方は今も分からないし、親戚の人がくれた水晶の原石は間違いなく実家に置いてきてしまった。独自世界観による魔術的思考も、その時以降、鳴りを潜めてしまった。

時々、生活の潤い、瑞々しさ、生っぽさはずっと(体感で)失われたままという感じを強く感じることがある。乾いた感じと言えばいいか。何らかのきっかけで気分が変調をきたすと、他者のみずみずしさを奪ってやりたい気持ちでいっぱいになることがある。「向こう側」の者たちだけが持つ瑞々しさを。自分以外の大半の人間たちが当たり前のように享受している、あの潤いを。かつて捨ててしまったものは、決して余分なものではなかった。誰にどういわれようとも、両親から「女の腐ったような」奴だと言われようとも、手放してはいけないものがあった。けれど捨ててしまった。もう遅いが、捨てて得られたものは少なかった。捨てて得たものというのは、多分、「シビアさ」で他者や自分を切り刻んでやるための言葉群や、いつか地元連中と血縁者たちに再開したときに放ってやる予定の暴力の候補、など、物騒なものばかりだった。小中高の頃はしばしば自分を傷つけてくる「堕ちた者」の所作を自分も身につけ、彼らからの干渉を退けてやりたい、等と思っていたが、例えて言うなら堕天使とかその辺の思考なのだろうか。軽い興味本位で人を理解したくなって地上に降りてしまったことで、数々のデメリットに苦しむことになる。結局、「シビア」な武器は自分とソリが合わず、人に向けて放つ技術は持ちえなかった。しかし、今でも無関係なはずの場面、文脈の言葉や表現に触れた際に、勝手に自分一人だけが傷ついている。自分の武器で勝手に自分一人だけが傷ついている。大切なものを捨ててしまったことは、全くもって実りがある選択ではなかったのだ、と今ではとても後悔しているが、かといって、巾着たちを取り戻しても、瑞々しさを失ってしまった今の自分では、あの魔術的な力を扱いきれないことも理解している。いっときはそれを疑似的に取り戻すために奔走していたが、幻想や神秘と触れることは、今の自分にとっては、生活が壊れてしまう危険を伴う。なぜなのかはわからないが、今の自分があの時の神秘や幻想に触れてしまうと、今自分を形作っている地上のものが根こそぎぶっ壊れてしまうような気がする。壊れてしまってもいいのだと囁く奴が脳内に住んでいるが、半分無視している。無視が可能となったのは進歩か社会適合か堕天か、もうよくわからないのだが。

 

当たり前の話を付け加えておくと、巾着や石やビー玉や変な形のフィギュアが「実際に」*12魔力なるもので「実際に」稼動したり、不思議な能力を「実際に」有している必要はない。自分の現実理解の媒介項としての機能*13や、物質化された安心感、などの、割合あやふやな力を担っていたと思う。けれど、エルリック兄弟を見習った*14結果、「あやふや」*15なものを捨てることになってしまった。「決意」と「誓い」*16に基づき、自分を「変える」ために行った行為だが、結局輝かしいものを自ら手放し、他者の欲望を求めるゾンビになってしまっただけだった。

 

サー同に加入した六年前の11月は、まさに、自分の大切なものを「弱さ」と一緒に捨てたつもりになっていた時期であった。実際には、誰も守ってくれなかった自分のことを守る最後の砦を自分で切り崩していただけだった。傍から見れば、愚かにも自ら破滅していく道を選んだペシミスティックなマゾヒストでしかなかった。ただし、インテリな人間にファンタジックな妄想を語るのはかなり抵抗があるので、サー同周辺であんまり語ったことは無かった気がする。

 

最近は、もう無茶な誓いを立てたり、自分にとって価値が無い人間の言うことを真に受けたり、そいつらのいる「地点」を目指すために自傷行為的な努力に走ってみたりする試みは放棄し、手を付けないことにした。社会の求める「普通」を目指さなければいけない的な価値観とも距離を置くようにしている。それでも「外部からの目が無いと」などと言ってこちらを詰めてくる人間がいて、彼らの言い分はたいてい決まっていて「現にそうなっている」「社会に出ると手ひどいを言ってくる人間がいるから今のうちに慣れさせておく」なんて形で正当化を図っているが、お前もその一人やねん。手ひどいこと言ってくる連中の一人やねん。現に今目の前で俺のことを指差して詰って抑圧してきてる人間やろ。いくら社会の視点がどうだと言われても(センシティブな話題を話し合えるくらい信頼できる間柄でもないなら)お前の自己紹介でしかないねん。社会って言葉を狡い使い方してるだけやん。どんだけ留保しても無駄やろ。神様でもない奴が何言ってんだ。

…危ないので、ちゃんと最近の話をしよう。最近は自宅や人の家でアニメやゲームを見たり、本を読んだり*17、見た作品や文献についての自分なりの読解や批評を試みている。専門書を自分なりに読むとき、たいていはそれを通してアニメゲーム漫画について考えることが多い。つまり空想の材料としている。多分、捨ててしまった巾着やビー玉の代替物としての側面もあるだろうと思う。

周囲の何人かは知っているだろうが、自分は金欠になるまで本を買い込んでしまう癖がある。多分、埋まらない穴を埋めようとする習性か何かだと思う。自分に欠落している何か、もっと踏み越えた言い方をすれば、自分以外の他人が持っている何かを手に入れるための試みの一つなのかもしれない。けれど、世間は悪い意味で無垢かつシビアであって、自分のような「足りない」人間は何かを余分に費やさなければどこにもいられないのだろう、という気がする。付け込まれないように注意しなければいけない。

 

 

終わりに

ひとは自分の持っているものだけで勝負しなければいけないが、その「事実」にずっと「異議申し立て」をしている。誰に?多分神とかそういうのに。ずっと自分は「足りない」側の人間なのだと思っている。が、足りなさを埋め合わせるための方法を間違えてはいけない。こんなナリでも前よりずっとマシになってきてはいるが、未だに自分のことがそれなりに嫌いなのだと思う。善逸が言っていたように、「心の中の幸せを入れる箱(中略)の穴に早く気づいて塞がなきゃ」*18いけない。そのままでは「満たされることはない」から。自分から常に「不満の音」が聞こえる。それなら、ツイッター見て精神的自傷なんかせず、しばらくは潔く引きこもっていればいいのにと思う。戦場では負傷者は撤退を余儀なくされる。作戦行動に支障が出る。なら下がって大人しく休むなり余生を送るなりすればいい。卓越化を図ろうとオラオラしているその辺の人間のことも放っておけばいい。自分の生活を馬鹿にするものがいたらグーパンすればいい。神相手に異議申し立てするのに時間を使うのももったいない。今の巾着を大事にするしかない。

 

*1:ホリィは12月2日を一日目として数えていていた気がするが、気のせいだろう、多分…

*2:なぜ自分で企画をしないのか。これは永遠の謎である。

*3:今思い出してもとても恥ずかしい限りで、正直あんまり人に開示したくない思い出だ。

*4:遅くとも幼稚園年小あたり。つまり4歳あたり

*5:小学校高学年あたりだったと思う。この時期にちょうどサンデー連載作品の見本が数点載っているフリー冊子を本屋で見つけて持ち帰り、そこに掲載されていた作品の一つである「MÄR」を読んだ気がする。魔力を有する彫金師が作ったアクセサリーで戦うバトル漫画で、自分と世代が近い人間にはそこそこ認知されている作品のはず。

*6:その中には例えば、特定のルールを自分に課し、何かを達成することで願掛けとするようなものがあった。登下校の際に側溝の蓋の境目を踏まないようにしつつ自然と歩き、踏んだ回数で明日の調子が決まる、等。遊びと儀式が融合していた習慣だった。H×Hの念能力における「誓約と制約」と似てる。当時は見ていなかったが。

*7:ここまで話を簡単にするために巾着と言っているが、実際には簡易的な術式として巾着の中身だけを持ち歩く=かさばるときは巾着の中身だけを持ち運ぶことがあったし、巾着に入れていたものに限らず、例えば一時期身につけていたリストバンドなど、似た機能を担っていた小物や雑貨類はいくつかあった。

*8:宅浪中に読んだ村上龍「愛と幻想のファシズム」からの影響が悪い方に作用したのだと思う。主人公のトウジは「野生」の論理を至上のものと見做し、弱者を嫌い、依存と弱者を強く結びつけてもいたと思う。

*9:そんなものはない。

*10:理系であることは理由になっていない。おかしな話だと思うが、そう強く思い込んでいた。

*11:シビアな皮被った説教臭い作品は大ッ嫌いだよ!!

*12:「実際に」がどのようなニュアンスなのかを説明するのがとても難しいが、例えば、TYPEMOON作品群の「エーテル」が近いのではないか。これは魔術や魔法の発動の際のエネルギーやある種の物質としての側面が強調されている。その証左として、作中の魔術師が魔術を使うために必要な身体器官に対して「魔術回路」というネーミングが使われている。つまり、エーテルと電気エネルギーとのアナロジーを誘導しているのだが、これは作中の魔術や魔術師の探究活動が我々でいう科学や芸術のそれに似た形態を取っていることを示唆させてもいるだろう。自分が巾着やビー玉に対して抱いていた、期待していた、見出していた機能や効能というのは、この意味での「エーテル」的なものではないのだ。

*13:残酷で強烈な現実と自分との間に入って守ってくれる機能と言ってもいいか。親でも教師でもなく、肌身離さず持っていた石だけが自分のがんばりを知ってくれている、みたいな…

*14:ことわっておくと、エルリック兄弟は何も悪くない。ただし、作品全体を覆う説教臭さは大ッ嫌いだ

*15:あやふやであることと、女々しいことと、女性のものであることは、芸術の文脈ではかなり強固に結びついているらしい。どうやら。著名な批評家がこれに基づいた先入観で作品をぶった切っているツイートを二年半前に見たことがある。こんなものはただの偏見であって、手あかにまみれた、クソったれのものの見方だろう。

*16:いずれもホモソっぽいな言語行為だろうと思う。彼らの多くも、本当?の決意、誓いなどではなく、儀式的、儀礼的に決まったことのように、空虚なものを掲げ、自分らの連帯の「中心」とするにとどまっているのだろうが。

*17:漫画は読むが、小説はあんまり読まない。基礎的な内容の理工書、社会学の本、精神障害についての本が多い。今年入ってからは宮田登、立岩「私的所有論第二版」、キャンベル、パノフスキー「イコノロジー研究」、ボードリヤールなどを読んだ気がする。今は「疾風怒濤精神分析用語辞典」を読んでいる。

*18:鬼滅の刃17巻 P61

孫の手エンジン

サークラアドベンドカレンダー2019年12月8日分です。

辛い話、昔の出来事の蒸し返し、思い込み、抽象的な話があります。

 

 

 

 

一見ただの逃げ

これまで大勢の人たちによる自分への親切、協力、善意、祈りを受けている*1にも拘らず、自分は社会との接点で常に何かしらのごまかしや逃げを働いてしまい、結果として、自主性、積極性、自/他マネジメント力、ソリューション力、時間感覚、身体能力、速さ、勝負力、発声時の声の高さと通りの良さ*2*3などを含む様々な要素*4に著しい欠陥*5を抱えている。しかし、どれも今すぐに一般人レベルまで追いつくためにはそれなりの努力や習慣づけが必要であることは自分でも漠然と納得しつつも、しかし今までの歴を振り返ってこれらを改善する機会を探してもどこにもそんな機会は見つからなかった。

 

余白の無さ

ある時期の自分はある何かに全力を尽くしていたし、別の時期の自分はその何かに加えてさらに別の何かにも全力を尽くしていた。具体例を挙げると、10年程度前は高校生活で発生した下らない日常会話のネタ探しに毎日必死*6だったと記憶しており、5年程度前は宅浪しながら家族を養うのに必死であり、20年前の平日昼は一人スターフォックス64ごっこのステージ選びに必死だった。どこにも余白が無い*7

 

孫の手

さて、話の方向性は変わるが、余白が無いとなにが起きてしまうのか。それを説明するためにある仮説*8を紹介しよう。全ての文化、孫の手*9*10、性、言葉、お金、価値/勝ち、人為は余白から生まれ、余白は先述の孫の手や人為から生じるという仮説である。人為エンジン、余白エンジン、人為サイクルとでも言うべきか。

 

余白エンジン

余白を消費し、人為エンジンを稼働させ、実質*11的な再生産を継続的かつ安定して回し、そして余白を得て、再び人為を回す。一般人は20代に入る頃にはこれができる*12らしいですが、僕は今*13でもきちんとできるとは言い難いです。いや、見栄を張りました、できないです。現代社会では上述の熱力学サイクルもどきの運用技術が収入や人生の満足度に直結する*14。なので、自分が取りうる将来の選択肢(戦略)、現在から次に取れる選択肢(戦術)のいずれも、乏しい。このような状態の人間は社会では好ましく扱われず、オスとは見なされない。

 

結局ただの逃避

サイクルを回せない、サイクルを回すサイクルが無い、だから動かない。単に受け身ではなく、甘えではなく、サイクルの不具合として説明できる。やったね*15

 

 

以上が今回の進捗です。

読んでいただきありがとうございます。

 

 

*1:せめて思い込みではないと信じたい

*2:自分の声は低く通りが悪いのでその意味で「欠陥」化されやすい

*3:自分で改善しろ、甘えるな、とのお言葉を投げてこられる何の想像力も持ち合わせていない人達に言いわけするように言えば、中学校の合唱コンクール課題曲のパート分けが声帯の多様性に配慮されていなかったこと、高校のときにボカロや歌い手が競うようにクソ高い声で歌いやがっていたこと、若い時の周囲の人間の間では一般に高くて通る声の方が無条件に称揚される風潮があった、という経験が重なってしまったので、価値の低い声であることに関して自分は何一つ悪いと思っていない。

*4:社会人として生活するために必要であると声高に喧伝されることが非常に多い要素

*5:人間を実数値パラメータ空間の点と同一視するという立場から見れば、どれか一つの成分だけみればそれに関して人間は完全順序付け可能なので任意の人間の集まりを考えたら何かしらの能力値に関して高い人間と低い人間がおり…という趣旨の意味というより、自分が関わるどの集団を取り出しても自分はその集団とのやっていけなさ部分を常に自分は持ってしまっており、それについて努力の範疇で埋め合わせできない感を常に感じている。結局主観の範疇であるが、あまり馬鹿にならない影響力を伴って人生に作用していると感じている。

*6:ネタが見つからなかったら手短な手段で自殺する程度の必死さ(しかし実際にはそんな蛮勇?な人間ではなかった)

*7:自閉症スペクトラム症候群に関する本で見た、余白の無さ、というワードが強く印象に残っている

*8:仮説の体を成していない思い込みの類だが?

*9:タイトル回収

*10:稀に脳内で勝手に生じる独自の用語であり、メモ帳、科学技術、知識体系、適切なレッテル張り、繰り上がり計算のときに先に10を作って計算リソースを節約する手法、ユークリッド幾何の問題を解くときに引く補助線など、遠くのものを捕まえる時の足がかりとして使われる道具の事を指す言葉のひとつ。精神的に余裕のある人、つまり後述の「余白」がある人はこれを使うきっかけが多く、使い方も上手くなる傾向にあると思う。余白と孫の手を熱機関のように回すことで学歴や知能や身体能力や金銭を手にすることができるのが思想の趣旨。今回は偶然的に孫の手と打ってしまったが、異なる呼び名で呼ぶことの方が多い。例えば、「補助線」など。

*11:社会や他者や職場の人間や一つの仕事やプロジェクトにとっての実質

*12:これが誰に教わるまでもなくできるようになる、という主張は、比較的しっかりした大人や老人の説教の内容のパターンの一つとして非常によく知られていると思います

*13:20代後半(2019年12月現在)

*14:要出展

*15:何が?何も解決していない。何ならサイクルを回せない事への甘えを問われるわけだが?そもそも仮説としての要件を満たしているのか?ただの言葉遊びやんけ

重い自己紹介

 

サークラ歴4年のとま沢です。

歴は4年ですが、在籍は2年ほどです。2年前に、ある理由である立場をとり、その立場にコミットしていることを直接言及することなく間接的に表明するつもりで、会員であることをやめました。が、会員と不仲であるわけではない*1ので、人間関係は継続しています。

 

 

 

経歴

入会の経緯

入会の経緯ですが、2015年の京大NF祭で人々の楽しそうな様子を見て錯乱し、近くのコンビニで買った澄み渡る梅酒を3本空けて大文字山に登り、下山し、京大をふらふらしていた時に「サークルクラッシュにご注意を」という注意喚起をしていたビラから後光が差している*2のが見え、ビラに書かれたメールアドレスに連絡をしたことがきっかけです。

名前について

「とま」はトマトを意味しますが生のトマトはあまり食べられません。元々はLINEのアカウント名*3であり、サークラLINEグループ入場当時に利用していた名前でした。現在もサークラ周辺では継続的にこの名前で呼ばれています。

以前の出来事

以前に2度ほど大学を除籍処分になり、紆余曲折あって京都のシェアハウスを転々としていたものの、現在は京都市内で一人暮らしかつ自宅警備員*4をしています。

土地

北関東が地元ですが、地元の人間とは価値観のすり合わせが難しかったので、地元に帰る予定も今後関わる予定もないです。また、言語への尋常ではない苦手意識があり、外国語の習得または海外への移住の予定もないため、今後しばらくは京都に住まう*5予定です。ここには「日本に住むなら京都または少数の例外」という仮定が暗黙に含まれていますが。少数の例外とは、東京の外れの方、神奈川県、ネット環境のある限界集落、離島、高低差のある土地、などです。

 

現状

自閉症スペクトラム症候群の診断を受けており、周囲の助けを借りつつ、現状は特性に合った方法で社会復帰を目指していますが、若い時の様々な負債があり、生来のハンデ*6が無視できない程度の強さで現れており、昔の嫌な思い出のフラッシュバック*7見舞われることも多く、その上でマルチタスク力や他者の行動を読むセンスが著しく欠けているので、ものすごく難航しています。お金を貯めることと服を買うのも苦手で、それが引きこもり傾向に一躍買っていることが最近わかりました。もっと以前に自分が障害者だと明確に気付いていれば、最初からその方向性で努力をすれば良かったのですが、自分の思う普通の人間から外れるのがすごく嫌なので、幼少期から特殊な扱い(特殊学級入りなど)を頑なに拒んでいました。そういえば誰かが「発達障害は無能の正当化である」と言っていましたが、よく読むと何を意味する文章なのか不明なので解説をお願いします。

あと、実際会って話したりした人からは症状が軽いと思われることが多い*8ですが、外に出るときは症状を抑えるのに全力を尽くしています。これでも。まだ足りないか?

何にせよ普通にうまく空気を読んで会話をできていることの方が少ないと思います。最近は以前より比較的安定した生活の中で、好きなことを好きなようにするようにしているおかげか、以前より精神が楽になってきましたが、その代償なのか発達障害特有の癖を抑えることが難しくなってしまった気がします。*9

この周辺にありがちな、変わった人をおもちゃにしたがる文化を滅ぼしてやりたいと常に考えています。

 

趣味、生活

普段はアニメや漫画を見たり、インターネットで調べ物をしたり、図書館や自宅で適当に本を読んだり、ナンプレを解いたり、数学や物理の簡単な問題を解いたり簡単な本を読んだりして過ごしています。

アニメなど

アニメは特にこだわりなく見ているつもりですが、重いテーマを扱った名作をうまく見れなくなってしまったので、軽い作品ばかりを消費してしまいます。見る基準としては、漫画なら絵柄、アニメなら作画、特に特殊効果が魅力的であるかどうかで判断することが多いです。作品の背景で選ぶならSFやファンタジー、特に異能力を扱った創作が好きです。設定厨の気があるかもしれません。なので、今期はFGOアズールレーンを見ています。サークラ関係者ですが、特に恋愛要素の強い作品が好きというわけではなく、ゼロ年代の亡霊とも言えず、かと言って文化的でハイセンスなアニメばかり見るかというとそうでもなく、萌え豚*10的な作品だけで満たされるわけでもなく、中途半端な趣味なのが悩みです。

ゲームなど

ゲームはやらないのか?と天の声が聞こえてきたので答えますが、例えば対戦ゲーはかなり嫌い*11*12なので、ゲームをやるなら一人用一人称視点のアクションRPG*13*14をやりますが、対戦で唯一カービィのエアライドだけはちゃんと人と勝負ができるので、エアライドの対戦はいつでも受け付けています。ボタン3つ以上素早く使うことを強制される対戦ゲームって基本クソですよね、製作者は何を考えているのだろう。でもスプラトゥーンやダークソウルやFPSなら少しやってみたい。最近だとSEKIROもいいかもしれない。昨年後半は崩壊3rdを少しだけやっていたものの、度重なるアプデにより手持ちの機器でスペックが追いつかなくなり、プレイが難しくなったので1年ほど中断しています。中国産の3DアクションでSFチックなシュッとした世界観のやつは割と好きです。

数学について

数学について話すと、最近勉強しているのは、多様体*15トポロジー、折り紙、圏論に関する簡単な話が多いです*16*17。また、受験数学と受験物理の過去問を時々解いたりしています*18。以前は主に物理学をやっていたのですが、場の理論変分法と一般相対論の4次以上のテンソル計算のあたりでつまづいてしまってから、数学に軸足を置いています。やっているといっても、今は、(絵で例えるなら)絵筆の使い方と画材の性質を学んで模写だけをしている段階ですが*19。自分は数学科の出身ではなく、数学をやる際の姿勢や現状の目的、あるいはテクニカルタームの解釈や捉え方や使い方に関してある種の*20ズレがある可能性が高く、数学ヤクザ*21なる人たちに目をつけられないようにするため、普段はツイッターに数学のことを書かないようにしています*22ツイッターに数学の話を書いている人たちは勉強する速度が非常に早く、内容もかなり高度なように思います*23*24。数学のイベントに顔を出さないのかと任意の人からよく言われますが、あそこに行くのは主に若い人、現役の研究者、何かしらの職がある人が大半なので、僕みたいな意味不明な歴だったり、一般社会で悪目立ちする類の人間は来るなと漠然と言われてるような気がします*25。2年程度前は関西すうがく徒のつどいに行ったりもしたのですが、今はあの時ほど(症状などを抑えつつ)外に出る元気はないですね…

 

今年の活動

今年は林美月という油画専攻(2019年10月現在)の友人が主催するイベントや展示にステートメントを書くなどの形で協力したりしました。普通に会話する分には美術の人たちの方が気があう人(と感じさせる話をしてくれる人)が多いように個人的には思います。尤も、彼ら美術系の人間が僕のことをどう思っているのかを考えると、いくつかの意味でとても怖いのですが…

 

まとめ

ここまでの話を見て頂けた通り(?)、基本的には部屋にこもって生活しています。外は怖い。他者は怖い。とはいえ、引きこもっているだけでは頭も体も、なんというか、致命的に劣化してしまう*26気がするので、月に数回程度、人と食事に行ったり遊んだり話したりする機会を人工的に設けることを心がけています。ただ、自発的に誘うのは苦手なので、人からの誘いが来たりその機会のサイン*27が出るのを待っていることが多いです。受け身型のアスペは生きるのが大変そうだしこの社会では地位低そうだなと、何かの新書を読んで思いましたが、そんな感じです、自分の姿勢は。積極性を頑張って獲得してもベタなアスペ失敗談のネタを量産してしまうため、(側からみたら)学習性無気力に陥ったような状態で落ち着くことで仮初めの安定を手にしています。

 

サークラ関係者っぽい話題

以前は、ミソジニーこじらせ、非モテ発達障害ヒエラルキー、認知の歪み、能力主義などについて独自に勉強あるいは考察することが多かったのですが、最近はその辺の話題から距離を置いています。理由は、専門家ではない僕がその辺に何か思うところを述べたとしても、既に終わってる議論あるいは何らかの意味で議論になることがないお話に属することが多いことを身に沁みて分かってきたためです*28自己実現の結果として地位が向上し、その論を必要としなくなったのではなく、その論を振り回す力さえ失ってしまったため現状逃げているとも言えるでしょう。ただ、これらのトピックを調べる過程で現代思想や哲学と少しだけ接点が生まれたのは良かったなと思います。この接点は、先述の林との仕事で活きていたのでそれに関しては幸いです。また、有名人や経営者による問題発言を見かけた時に、適度に距離を取りながら無視することが前よりもできるようになったのは、その辺のおかげと言える気がします。

実は先月のサークラ女子会座談会に参加していましたが、当事者研究会というテイで議論を行う際はあらかじめルールをきちんと明言化し、進行を制御したほうがいいかもしれないなと思いました。雑な認識を吐き出してしまう形になりますが、一般に、フェミニスト寄りの方々見れば、僕は男の肉体を持った男性ジェンダーとしか認識されず、かつ、僕自身の性自認も男性であり、モノアモリーヘテロセクシャルでもあるので、要はただ女性を抑圧する仮想敵や権力者としての男性でしかなく、冷静な会話は既存の抑圧の再生産でしかないと認識される。そのような状況での僕の発言に価値はないし、それとは別で、僕自身も女の子の肉体を模したものを何らかの形で健康的に性的消費している。だからもう何も言わないことにしました。僕は距離を置く、だから(男性であることだけを理由に他の男の手による暴力話をこちらにぶつけるのなら)お前らも関わるな、ですね。何言ってるかわからないと思いますが、詰めるとこの辺だけで一万字以上の分量になりそうなのでまた機会を設けたいです。



結び

長くなったのでそろそろ筆を置きます。

起承転結みたいな型を守れなかった。

鬱の気があるのか、長考すると極端かつネガティブな考えに捕まえられてしまう。

ではまた

 

*1:要出典

*2:要出典

*3:SNSで本名を使わない原理主義者だったので本名を使っていなかった

*4:後述しますが、何らかの形での社会復帰を若干目指しているので、就職の意思が無いわけではなく、おそらくニートの定義には該当しないです。ただ、この社会は基本的に価値がないので社会のために頑張ってるとかそんな感じのあれじゃないです。任意のベタな社会逆張りパーソンに言いたいのですが、このさじ加減、どうにか分かってくれませんかね

*5:京都語で「ヨソ者」に該当する身分ですね

*6:若干のチック症、過集中、触覚と聴覚の過敏、協調運動障害など

*7:親からの軽い虐待(軽くないです)や過去の失敗経験など

*8:そのため引きこもりや自宅警備員でいることが甘えだと認識されることが非常に多い。症状が軽くなくても甘えだとおっしゃる方は詳しい説明をお願いします。

*9:とはいえ基本的に、この社会に価値があるとか個人あるいは学者の特定の思想や立場ややり方に特別かつ原理的な価値があるなどの考えを持っていません。できれば持ちたくもありません。間違えて持ってしまったとしても、表面に出さないように、そのことによって人と衝突しないように生きたいです。複数の異なるカテゴリに属し通常の理解をすれば互いに関係のない価値どうしについて絶対的な序列をつけるつもりは全くなく、(なぜ1番か、ではなく)何が一番であるかという話には興味がないので、何かが一番であると声高に主張する「論」をみるととても大雑把な人たちなんですねと思う

*10:古の言葉でいえば

*11:昨今のスマブラブームについては反感の感情しか持ち合わせていないです、基本的に。

*12:ボドゲもあまり得意ではないので、自閉症スペクトラム症者向けのプログラムで安易にボドゲを導入されがちな風潮に違和感がある。他のASD者は設定付きのシチュエーションでなら会話ができる。お前は他のASD者より数百倍甘えている、と言われている気がしてしまう。

*13:キンハ、ニーア、マリオ64など

*14:ゲームとしてのKH3は楽しかった、ストーリーに是非はあるものの…

*15:実は2年ほど前に複素数太郎とマンツーマンで松本多様体の勉強会をやったものの、その内容をきちんと体で理解できたのは最近のことでした。読書会当時は、位相空間論の基礎知識と、数学科の数学のノリへの理解が圧倒的に不足していた気がする

*16:みなさん量子情報や高次の圏や数学基礎論機械学習などの実地的またはムーブになっているトピックを勉強している様子ですが、僕はその辺に本格的に手をつける事は今は考えていません。ある出来事以降、思考の速度と精度が低くなってしまい、世間のムーブのスピードに食いついていくことが現実的に難しくなりました。

*17:とはいえ、速度だけがものを言う単調な遊びがまさか2000年も残るわけないよな、という個人的な思い込みと、数学的創造性と学びの速さは関係がないという大森英樹氏の言葉があるので精神崩壊しなくて済みますね!やったぁ!じゃねえんだよ

*18:その際、参考資料として受験系ユーチューバーのAKITOさんの解説をよく拝見しています。他の受験系ユーチューバーは治安が悪いので基本的に見ないようにしています。

*19:あと何年やれば創造的に数学できるようになるんでしょうね〜って常に天の声が聞こえています

*20:悪い意味での

*21:古のネットで悪質クラスタと呼ばれていた人たちみたいな姿勢の人達

*22:少し話は飛びますが、元悪質クラスタの人や数学やってる人たちに度々きつく言及されている某独立研究者は本当に良い迷惑を生成してお疲れ様という感じです。彼が書いた圏論のpdfがネットに落ちていますが、あれどの程度正しいのでしょう。数学と哲学の両方がわかる人、早く解説記事を書いて欲しい。日本の現役学者でその能力を持ち、かつその暇がある人がいるのかどうか微妙ですが。あと岡潔のポエムばかり扱う雰囲気もなんかイライラするな。ああ早く岡潔の論文集日本語で出版されないかな。層の理論の元ネタがどう使われてるのか気になります。

*23:内容がかなり高度だからこそツイッターに書く価値と自負があるのだ、という声が聞こえてきましたね、今

*24:高校生で論文を投稿したFFの人などは雲の上という感じです

*25:数学に限らず多くのイベントはそのように設計されているという一般論の範疇での話です。服を買う服が少ない。

*26:これは能力主義の肯定ではない

*27:統失特有の思い込みではないです

*28:個人的な会話の際には今でもそのようなナンセンスな話題を話してしまうけれど…