孫の手エンジン

サークラアドベンドカレンダー2019年12月8日分です。

辛い話、昔の出来事の蒸し返し、思い込み、抽象的な話があります。

 

 

 

 

一見ただの逃げ

これまで大勢の人たちによる自分への親切、協力、善意、祈りを受けている*1にも拘らず、自分は社会との接点で常に何かしらのごまかしや逃げを働いてしまい、結果として、自主性、積極性、自/他マネジメント力、ソリューション力、時間感覚、身体能力、速さ、勝負力、発声時の声の高さと通りの良さ*2*3などを含む様々な要素*4に著しい欠陥*5を抱えている。しかし、どれも今すぐに一般人レベルまで追いつくためにはそれなりの努力や習慣づけが必要であることは自分でも漠然と納得しつつも、しかし今までの歴を振り返ってこれらを改善する機会を探してもどこにもそんな機会は見つからなかった。

 

余白の無さ

ある時期の自分はある何かに全力を尽くしていたし、別の時期の自分はその何かに加えてさらに別の何かにも全力を尽くしていた。具体例を挙げると、10年程度前は高校生活で発生した下らない日常会話のネタ探しに毎日必死*6だったと記憶しており、5年程度前は宅浪しながら家族を養うのに必死であり、20年前の平日昼は一人スターフォックス64ごっこのステージ選びに必死だった。どこにも余白が無い*7

 

孫の手

さて、話の方向性は変わるが、余白が無いとなにが起きてしまうのか。それを説明するためにある仮説*8を紹介しよう。全ての文化、孫の手*9*10、性、言葉、お金、価値/勝ち、人為は余白から生まれ、余白は先述の孫の手や人為から生じるという仮説である。人為エンジン、余白エンジン、人為サイクルとでも言うべきか。

 

余白エンジン

余白を消費し、人為エンジンを稼働させ、実質*11的な再生産を継続的かつ安定して回し、そして余白を得て、再び人為を回す。一般人は20代に入る頃にはこれができる*12らしいですが、僕は今*13でもきちんとできるとは言い難いです。いや、見栄を張りました、できないです。現代社会では上述の熱力学サイクルもどきの運用技術が収入や人生の満足度に直結する*14。なので、自分が取りうる将来の選択肢(戦略)、現在から次に取れる選択肢(戦術)のいずれも、乏しい。このような状態の人間は社会では好ましく扱われず、オスとは見なされない。

 

結局ただの逃避

サイクルを回せない、サイクルを回すサイクルが無い、だから動かない。単に受け身ではなく、甘えではなく、サイクルの不具合として説明できる。やったね*15

 

 

以上が今回の進捗です。

読んでいただきありがとうございます。

 

 

*1:せめて思い込みではないと信じたい

*2:自分の声は低く通りが悪いのでその意味で「欠陥」化されやすい

*3:自分で改善しろ、甘えるな、とのお言葉を投げてこられる何の想像力も持ち合わせていない人達に言いわけするように言えば、中学校の合唱コンクール課題曲のパート分けが声帯の多様性に配慮されていなかったこと、高校のときにボカロや歌い手が競うようにクソ高い声で歌いやがっていたこと、若い時の周囲の人間の間では一般に高くて通る声の方が無条件に称揚される風潮があった、という経験が重なってしまったので、価値の低い声であることに関して自分は何一つ悪いと思っていない。

*4:社会人として生活するために必要であると声高に喧伝されることが非常に多い要素

*5:人間を実数値パラメータ空間の点と同一視するという立場から見れば、どれか一つの成分だけみればそれに関して人間は完全順序付け可能なので任意の人間の集まりを考えたら何かしらの能力値に関して高い人間と低い人間がおり…という趣旨の意味というより、自分が関わるどの集団を取り出しても自分はその集団とのやっていけなさ部分を常に自分は持ってしまっており、それについて努力の範疇で埋め合わせできない感を常に感じている。結局主観の範疇であるが、あまり馬鹿にならない影響力を伴って人生に作用していると感じている。

*6:ネタが見つからなかったら手短な手段で自殺する程度の必死さ(しかし実際にはそんな蛮勇?な人間ではなかった)

*7:自閉症スペクトラム症候群に関する本で見た、余白の無さ、というワードが強く印象に残っている

*8:仮説の体を成していない思い込みの類だが?

*9:タイトル回収

*10:稀に脳内で勝手に生じる独自の用語であり、メモ帳、科学技術、知識体系、適切なレッテル張り、繰り上がり計算のときに先に10を作って計算リソースを節約する手法、ユークリッド幾何の問題を解くときに引く補助線など、遠くのものを捕まえる時の足がかりとして使われる道具の事を指す言葉のひとつ。精神的に余裕のある人、つまり後述の「余白」がある人はこれを使うきっかけが多く、使い方も上手くなる傾向にあると思う。余白と孫の手を熱機関のように回すことで学歴や知能や身体能力や金銭を手にすることができるのが思想の趣旨。今回は偶然的に孫の手と打ってしまったが、異なる呼び名で呼ぶことの方が多い。例えば、「補助線」など。

*11:社会や他者や職場の人間や一つの仕事やプロジェクトにとっての実質

*12:これが誰に教わるまでもなくできるようになる、という主張は、比較的しっかりした大人や老人の説教の内容のパターンの一つとして非常によく知られていると思います

*13:20代後半(2019年12月現在)

*14:要出展

*15:何が?何も解決していない。何ならサイクルを回せない事への甘えを問われるわけだが?そもそも仮説としての要件を満たしているのか?ただの言葉遊びやんけ