失われた魔法、空いた穴、喪失感

 ※ この記事はサークラアドベントカレンダー11日目*1の記事として作成したものですが、テーマである「こじらせ自分語り」とはズレている内容が扱われているかもしれません。

 ※※ あんまり読みやすさを期待しないで下さい。

 ※※※ 記事中に掛かれている内容について。誤字、脱字、事実と異なる記述、誤解を生む表現については、指摘を受け次第修正を図ります。が、筆者が関知していない場所での意見を拾うことはできませんし、たとえ筆者のもとに届いた意見であっても独断で誹謗中傷であると判断した意見については無視します。

 ※※※※ 一応最後の方は希望の兆しが見える締め方で〆ました。が、本文はいかにもうだつの上がらない鬱病男の文章という感じになってしまった。

 

 

 

自己紹介

とま沢です。特に学生でも何でもない者です。サー同歴は6年程度ですが、頻繁に顔を出す方では無く、主体的なコミット度も少なく、興味のある読書会や勉強会が行われているタイミングを狙ってたまに顔を出すくらいの者です*2

今回は、昔手放してしまったものについて連想的に語っていこうと思います。抽象的な話が続く段落、論理のギャップが著しい部分があると思いますが、可能な限り容赦してほしいです。具体的なエピソードベースできっちり考えていた時期は、こういったことを考えるたびにいちいち際限なく凹んでそのたびに周囲と自分に当たってしまっていたので、今は控えめな言葉を使って婉曲的に考えるようにしています。あと、本文は常体で書かれています。

 

 

本文

自分は人のものや「他」性が強く感じられるものを欲しがっていた子供だった。今もそうだと思う。消費社会論や他者の欲望論などに触れるとかなり刺さる。単に人に精神的物質的に依存しがちな面とか、飽きっぽさとか、慢性的な自己肯定感の低さなどが根幹にあるのかもしれないし、それらとは別で「他」「外」を求め続ける強い欲動があるのかもしれない。

 

小3の頃、表面が磨り加工された青いビー玉を持っている同級生がいたが、彼にねだってそれをもらったことがある*3。貰った後は、20歳過ぎた後も大切に持ち歩いていたり、部屋の隅に作った「祭壇」に祀ったりした。昔はそういったビー玉みたいな小物や雑貨をいくつか所有していて、それらをペットボトル飲料か何かのおまけで付いてきた小さくて真っ赤な巾着に入れて大切に持ち歩いていた。もともと*4綺麗な鉱物や変わった形の生き物やフィギュアが好きだったのだが、それがきっかけで生じた癖だったと思う。巾着の仲間たちの中には錆びた大きなワッシャーらしき機械部品があって、これは下校中に道端で拾ったものだったか。指に嵌めたり、小さなビー玉と合わせて土星を作ったりして遊んでいたのを覚えている。自分は空想好きだったのだが、割と田舎の方に住んでいたので、登下校中に暇なときは、適当な枝や草を拾っていじっていたり、劣化して裂けて長いこと補修されていない道路のアスファルトのヒビを見つめたりもしていた。ヒビの中にはきっと自分たちと同じような生活をしている小人たちがいて、小人の世界の道路のアスファルトのヒビの中にも、小人の小人が住んでいるのだろう、などと考えたりもしていた。そういった遊びと地続きなかたちで、巾着やビー玉を常に持ち歩く癖があった気がする。

しかし、いつ頃だったか*5、巾着や空想の意味づけがちょっとだけ変化した。魔法に使う魔石だとか、自分が何かを行為したり実行したりする際の媒介である、など、具体的でファンタジー設定的な色彩をちょっとだけ帯びてきたのだ。ちょっとだけ。自分がそれを持ち歩いている理由も、持ち歩いていて楽しいからではなく、たとえば、テストのときの願掛けとか、学校に行くのがつらい時のお守りとか、そういった考えが確立してきてしまっていた。ある種の依存心が強くなってしまったのかもしれない。もともと学校ではさまざまな不具合や事件の当事者として悪目立ちしていたが、クラス内でのハブられや馴染めなさの度合いをしんどく思うようになってきていた気がする。多分、前述の設定や説明、ひいては常に持ち歩いている巾着やビー玉は、そんな自分を守ってくれるバリアの一つだったのだろう。ただし実はバリアはその一つでは十分ではなく、いくつか設けたうちの一つだった*6

その後も巾着*7は、学校に行くときもどこかに出かけるときも部屋にいるときもだいたい常にポケットに入れて肌身離さず持ち歩いていたのだが、中高大に進学した後も、それをやめることができなかった。

最初の大学を除籍し地元で宅浪していた時期、自分は巾着を持ち歩く癖をある種の物質依存や偶像崇拝と解釈し、そうした試みは「欠落」であるとのだと断じ*8、それをやめて、「完全な大人の男性」*9になることを目指した。他にも、そういった「欠落」を自分はたくさん持っていた。それらは概ね「女子っぽくて乙女な趣味」「理系なのに*10空想主義的で妄想的」「女の腐ったみたいな」奴の特徴であることを自分は「よく理解していた」ため、「甘え」を捨ててそれらを必要としない生き方にレールチェンジするために奔走した。その際にハガレン*11エルリック兄弟などを見習い、再受験した大学に受かって京都に引っ越すことを期に、それら「余分なもの」を徐々に捨てることを決心した。そして、色々あってそれらの多くを捨てることに成功してしまった。ビー玉や巾着の行方は今も分からないし、親戚の人がくれた水晶の原石は間違いなく実家に置いてきてしまった。独自世界観による魔術的思考も、その時以降、鳴りを潜めてしまった。

時々、生活の潤い、瑞々しさ、生っぽさはずっと(体感で)失われたままという感じを強く感じることがある。乾いた感じと言えばいいか。何らかのきっかけで気分が変調をきたすと、他者のみずみずしさを奪ってやりたい気持ちでいっぱいになることがある。「向こう側」の者たちだけが持つ瑞々しさを。自分以外の大半の人間たちが当たり前のように享受している、あの潤いを。かつて捨ててしまったものは、決して余分なものではなかった。誰にどういわれようとも、両親から「女の腐ったような」奴だと言われようとも、手放してはいけないものがあった。けれど捨ててしまった。もう遅いが、捨てて得られたものは少なかった。捨てて得たものというのは、多分、「シビアさ」で他者や自分を切り刻んでやるための言葉群や、いつか地元連中と血縁者たちに再開したときに放ってやる予定の暴力の候補、など、物騒なものばかりだった。小中高の頃はしばしば自分を傷つけてくる「堕ちた者」の所作を自分も身につけ、彼らからの干渉を退けてやりたい、等と思っていたが、例えて言うなら堕天使とかその辺の思考なのだろうか。軽い興味本位で人を理解したくなって地上に降りてしまったことで、数々のデメリットに苦しむことになる。結局、「シビア」な武器は自分とソリが合わず、人に向けて放つ技術は持ちえなかった。しかし、今でも無関係なはずの場面、文脈の言葉や表現に触れた際に、勝手に自分一人だけが傷ついている。自分の武器で勝手に自分一人だけが傷ついている。大切なものを捨ててしまったことは、全くもって実りがある選択ではなかったのだ、と今ではとても後悔しているが、かといって、巾着たちを取り戻しても、瑞々しさを失ってしまった今の自分では、あの魔術的な力を扱いきれないことも理解している。いっときはそれを疑似的に取り戻すために奔走していたが、幻想や神秘と触れることは、今の自分にとっては、生活が壊れてしまう危険を伴う。なぜなのかはわからないが、今の自分があの時の神秘や幻想に触れてしまうと、今自分を形作っている地上のものが根こそぎぶっ壊れてしまうような気がする。壊れてしまってもいいのだと囁く奴が脳内に住んでいるが、半分無視している。無視が可能となったのは進歩か社会適合か堕天か、もうよくわからないのだが。

 

当たり前の話を付け加えておくと、巾着や石やビー玉や変な形のフィギュアが「実際に」*12魔力なるもので「実際に」稼動したり、不思議な能力を「実際に」有している必要はない。自分の現実理解の媒介項としての機能*13や、物質化された安心感、などの、割合あやふやな力を担っていたと思う。けれど、エルリック兄弟を見習った*14結果、「あやふや」*15なものを捨てることになってしまった。「決意」と「誓い」*16に基づき、自分を「変える」ために行った行為だが、結局輝かしいものを自ら手放し、他者の欲望を求めるゾンビになってしまっただけだった。

 

サー同に加入した六年前の11月は、まさに、自分の大切なものを「弱さ」と一緒に捨てたつもりになっていた時期であった。実際には、誰も守ってくれなかった自分のことを守る最後の砦を自分で切り崩していただけだった。傍から見れば、愚かにも自ら破滅していく道を選んだペシミスティックなマゾヒストでしかなかった。ただし、インテリな人間にファンタジックな妄想を語るのはかなり抵抗があるので、サー同周辺であんまり語ったことは無かった気がする。

 

最近は、もう無茶な誓いを立てたり、自分にとって価値が無い人間の言うことを真に受けたり、そいつらのいる「地点」を目指すために自傷行為的な努力に走ってみたりする試みは放棄し、手を付けないことにした。社会の求める「普通」を目指さなければいけない的な価値観とも距離を置くようにしている。それでも「外部からの目が無いと」などと言ってこちらを詰めてくる人間がいて、彼らの言い分はたいてい決まっていて「現にそうなっている」「社会に出ると手ひどいを言ってくる人間がいるから今のうちに慣れさせておく」なんて形で正当化を図っているが、お前もその一人やねん。手ひどいこと言ってくる連中の一人やねん。現に今目の前で俺のことを指差して詰って抑圧してきてる人間やろ。いくら社会の視点がどうだと言われても(センシティブな話題を話し合えるくらい信頼できる間柄でもないなら)お前の自己紹介でしかないねん。社会って言葉を狡い使い方してるだけやん。どんだけ留保しても無駄やろ。神様でもない奴が何言ってんだ。

…危ないので、ちゃんと最近の話をしよう。最近は自宅や人の家でアニメやゲームを見たり、本を読んだり*17、見た作品や文献についての自分なりの読解や批評を試みている。専門書を自分なりに読むとき、たいていはそれを通してアニメゲーム漫画について考えることが多い。つまり空想の材料としている。多分、捨ててしまった巾着やビー玉の代替物としての側面もあるだろうと思う。

周囲の何人かは知っているだろうが、自分は金欠になるまで本を買い込んでしまう癖がある。多分、埋まらない穴を埋めようとする習性か何かだと思う。自分に欠落している何か、もっと踏み越えた言い方をすれば、自分以外の他人が持っている何かを手に入れるための試みの一つなのかもしれない。けれど、世間は悪い意味で無垢かつシビアであって、自分のような「足りない」人間は何かを余分に費やさなければどこにもいられないのだろう、という気がする。付け込まれないように注意しなければいけない。

 

 

終わりに

ひとは自分の持っているものだけで勝負しなければいけないが、その「事実」にずっと「異議申し立て」をしている。誰に?多分神とかそういうのに。ずっと自分は「足りない」側の人間なのだと思っている。が、足りなさを埋め合わせるための方法を間違えてはいけない。こんなナリでも前よりずっとマシになってきてはいるが、未だに自分のことがそれなりに嫌いなのだと思う。善逸が言っていたように、「心の中の幸せを入れる箱(中略)の穴に早く気づいて塞がなきゃ」*18いけない。そのままでは「満たされることはない」から。自分から常に「不満の音」が聞こえる。それなら、ツイッター見て精神的自傷なんかせず、しばらくは潔く引きこもっていればいいのにと思う。戦場では負傷者は撤退を余儀なくされる。作戦行動に支障が出る。なら下がって大人しく休むなり余生を送るなりすればいい。卓越化を図ろうとオラオラしているその辺の人間のことも放っておけばいい。自分の生活を馬鹿にするものがいたらグーパンすればいい。神相手に異議申し立てするのに時間を使うのももったいない。今の巾着を大事にするしかない。

 

*1:ホリィは12月2日を一日目として数えていていた気がするが、気のせいだろう、多分…

*2:なぜ自分で企画をしないのか。これは永遠の謎である。

*3:今思い出してもとても恥ずかしい限りで、正直あんまり人に開示したくない思い出だ。

*4:遅くとも幼稚園年小あたり。つまり4歳あたり

*5:小学校高学年あたりだったと思う。この時期にちょうどサンデー連載作品の見本が数点載っているフリー冊子を本屋で見つけて持ち帰り、そこに掲載されていた作品の一つである「MÄR」を読んだ気がする。魔力を有する彫金師が作ったアクセサリーで戦うバトル漫画で、自分と世代が近い人間にはそこそこ認知されている作品のはず。

*6:その中には例えば、特定のルールを自分に課し、何かを達成することで願掛けとするようなものがあった。登下校の際に側溝の蓋の境目を踏まないようにしつつ自然と歩き、踏んだ回数で明日の調子が決まる、等。遊びと儀式が融合していた習慣だった。H×Hの念能力における「誓約と制約」と似てる。当時は見ていなかったが。

*7:ここまで話を簡単にするために巾着と言っているが、実際には簡易的な術式として巾着の中身だけを持ち歩く=かさばるときは巾着の中身だけを持ち運ぶことがあったし、巾着に入れていたものに限らず、例えば一時期身につけていたリストバンドなど、似た機能を担っていた小物や雑貨類はいくつかあった。

*8:宅浪中に読んだ村上龍「愛と幻想のファシズム」からの影響が悪い方に作用したのだと思う。主人公のトウジは「野生」の論理を至上のものと見做し、弱者を嫌い、依存と弱者を強く結びつけてもいたと思う。

*9:そんなものはない。

*10:理系であることは理由になっていない。おかしな話だと思うが、そう強く思い込んでいた。

*11:シビアな皮被った説教臭い作品は大ッ嫌いだよ!!

*12:「実際に」がどのようなニュアンスなのかを説明するのがとても難しいが、例えば、TYPEMOON作品群の「エーテル」が近いのではないか。これは魔術や魔法の発動の際のエネルギーやある種の物質としての側面が強調されている。その証左として、作中の魔術師が魔術を使うために必要な身体器官に対して「魔術回路」というネーミングが使われている。つまり、エーテルと電気エネルギーとのアナロジーを誘導しているのだが、これは作中の魔術や魔術師の探究活動が我々でいう科学や芸術のそれに似た形態を取っていることを示唆させてもいるだろう。自分が巾着やビー玉に対して抱いていた、期待していた、見出していた機能や効能というのは、この意味での「エーテル」的なものではないのだ。

*13:残酷で強烈な現実と自分との間に入って守ってくれる機能と言ってもいいか。親でも教師でもなく、肌身離さず持っていた石だけが自分のがんばりを知ってくれている、みたいな…

*14:ことわっておくと、エルリック兄弟は何も悪くない。ただし、作品全体を覆う説教臭さは大ッ嫌いだ

*15:あやふやであることと、女々しいことと、女性のものであることは、芸術の文脈ではかなり強固に結びついているらしい。どうやら。著名な批評家がこれに基づいた先入観で作品をぶった切っているツイートを二年半前に見たことがある。こんなものはただの偏見であって、手あかにまみれた、クソったれのものの見方だろう。

*16:いずれもホモソっぽいな言語行為だろうと思う。彼らの多くも、本当?の決意、誓いなどではなく、儀式的、儀礼的に決まったことのように、空虚なものを掲げ、自分らの連帯の「中心」とするにとどまっているのだろうが。

*17:漫画は読むが、小説はあんまり読まない。基礎的な内容の理工書、社会学の本、精神障害についての本が多い。今年入ってからは宮田登、立岩「私的所有論第二版」、キャンベル、パノフスキー「イコノロジー研究」、ボードリヤールなどを読んだ気がする。今は「疾風怒濤精神分析用語辞典」を読んでいる。

*18:鬼滅の刃17巻 P61